田中貢太郎
放生津物語
見えるでしょう、お諏訪様が、おいらの方を向いて来る
水面をのぞく▾
町なかの草原は、子供らの遊び場だった。その中ほど、古い榎の下に、小さな祠がひとつ。
「越中の放生津の町中に在る松や榎の飛び飛びに生えた草原は、町の小供の遊び場所であった。その草原の中央の枝の禿びた榎の古木のしたに、お諏訪様と呼ばれている蟇の蹲まったような小さな祠があったが、それは枌葺の屋根も朽ちて、木連格子の木目も瓦かなんぞのように黒ずんでいた。」
「初夏の風のないむせむせする日の夕方のことであった。」
子供らは、神通川の傍に出るという火の話をしていた。
「その話は神通川の傍になったあんねん坊の麓に出ると云うぶらり火のことであった。ぶらり火は佐々内蔵介成政が、小百合と云う愛妾と小扈従竹沢某との間を疑って、青江の一刀で竹沢を斬り、広敷へ駈け入って小百合の長い黒髪を掴んで引出し、それを神通川へ持って往ってさげ斬りに斬って、胴体はそのまま水に落し、頭は柳の枝に結びつけたので、小百合の怨みのぶらり火が出るようになった」
お諏訪様は、と誰かが言う。
「そうじゃ、白い、白い蛇のような姿をしておるよ」
「そうじゃ、白い蛇じゃが、神様じゃから怕いことはないよ」
江戸から来た白い顔の子が、祠の前に座った。
「お諏訪様、お諏訪様、いっしょに遊びましょう」 「お諏訪様、お諏訪様、いっしょに遊びましょう」 「お諏訪様、お諏訪様、いっしょに遊びましょう」
それは敬虔な云い方であった。
源吉は後から後からと繰りかえした。
「お諏訪様が出て来た、お諏訪様が出て来た、お祖父さん、お諏訪様が出て来た」
見えるでしょう、お諏訪様が、おいらの方を向いて来る
源吉には
「見えるでしょう、白いな蛇よ」源吉は前に指をさして、「それその蛇よ」
為作には
しかし、為作には中も見えなかった。草、祠、祠を抱いた榎もはっきり見えるが、他には何もなかった。
月夜のことである。
「お勝は月の下で背の高い一本の短い刀を差した暴漢に帯の端を掴まれていた。」
「背の高い短い刀を差した暴漢は、手習師匠をやっている林田与右衛門と云う浪人であった。」
「その林田の眼の前にその時、不意に恐ろしいものが閃いた。それは薙刀を二つ組みあわせたような紫色を帯びた大蟹の鋏であった。」
やがて、噂が町にひろがった——地下浪人の林田は、見えぬ蛇を踏んで死んだ、と。以来、諏訪神社を敬う心が高まり、祠は改築されることになった。
立派な社殿が成り、遷座の式の日が来た。
「時刻が来ると治左衛門が祝詞をはじめたが、その声が切れてしまった。」
「あ、牧野の旦那の首に、お諏訪様がいらあ」
「その時治左衛門の体は背後向きになった。」
「私の心に穢れがあって、明神の思召にかなわない、今日からこのお社の神主は、源吉殿にやらして、私が後見することにします」
「そこで源吉は治左衛門の被ていた水干を被て祭壇の前に据えられた。」
この少年神主は、その後も時どきお諏訪様と拝殿の前で遊んだが、町の人は其処に沢蟹の群や蛙の群を見ることがあった。