千葉 松戸・矢切
伊藤左千夫
野菊の墓
Nogiku no Haka — The Wild Chrysanthemum's Grave, 1906
秋の矢切に、野菊が一輪咲いている。
政夫は、想う人をこの花に譬えた。愛の言葉として。
――花に譬えるとは、摘むことを許すこと。
序
矢切
語り手の政夫の家は、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡を東へ渡った、小高い岡の上にある。川がひとつ、家と、この先の学校とを隔てている。物語の初めのころ、その川はまだ、少年が薬を取りに町へ通うだけの、のどかな日常の軸でしかない。
僕が三日置き四日置きに母の薬を取りに松戸へゆく。どうかすると帰りが晩くなる。民子は三度も四度も裏坂の上まで出て渡しの方を見ていたそうで、いつでも家中のものに冷かされる。
── 伊藤左千夫『野菊の墓』より
政夫は十五、月を数えれば十三歳と何ヶ月。民子は二つ年上の十七。ふたりは乳呑児のころから同じ家で兄妹のように育った。この年の秋までは、川も、渡し場も、何ひとつ恐ろしいものではなかった。空はよく晴れて、土手には枯れかけた草の穂が揺れている。矢切は、どこまでものどかな野である。
一
十五と十七
二人が仲良く過ぎるのを、まわりは放っておかない。隣近所が噂をし、それを聞いた嫂が母に注意する。母は口では「男も女も十五六になればもはや児供ではない」と諭すが、腹の底では二人をまだ子供と思っている。それでも小言は繰り返される。
民子が年かさの癖によくない。これからはもう決して政の所へなど行くことはならぬ。……民やは十七ではないか。つまらぬ噂をされるとお前の体に疵がつく。
── 同
村ではもっと露骨だった。兄も嫂も蔭では笑い、村中の評判は「二つも年の多いのを嫁にする気かしらん」で専らだという。だが民子が年上だという、その「二つ」は、数えの上のことにすぎない。
民子は十七だけれどそれも生れが晩いから、十五と少しにしかならない。
── 同
差は、実質二年もない。それでも「年上」という一語が、証拠品のように二人のあいだに置かれる。誰も声を荒げず、誰も手を上げない。ただ穏やかに、噂と小言が、少しずつ二人を遠ざけていく。まだ、それが何を用意しているのかを、少年は知らない。
宇宙間にただ二人きり
居るような心持に
お互になった
As if we were the only two souls in the universe.
── 伊藤左千夫『野菊の墓』(茄子畑の場面)より
二
野菊と竜胆
棉を採りにゆく山道で、二人は野菊の群れに出会う。花を介してしか、二人はまだ気持ちを言えない。その、花越しの応酬のなかで、一語が生まれる。
「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好もしいの。」
「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」
「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって……」
「僕大好きさ」
同じ山畑で、民子はそっと仇を返す。「政夫さんはりんどうの様な人だ」。野菊と竜胆――「面白い対ですね」と政夫は笑う。花を贈り合うだけの、無邪気で可憐なやりとりである。
花に譬えるということこの場面は、二人がいちばん幸福な瞬間として読まれてきた。それは間違いではない。ただ、少年は気づいていない――人を花に譬えるとき、その人はもう、摘まれる側に立たされているのだということに。野菊は美しい。美しいから、手が伸びる。摘まれても、花は抗わない。愛の言葉は、そのまま許しの言葉になってしまう。ここで一輪は、野から、手のなかへ移る。
三
渡し場の朝
噂が二人を追い、政夫は千葉の中学へ発つことになる。「来月から千葉の中学へ行くんじゃないか」と言われれば、政夫は行く。逆らう言葉は、出てこない。小雨の降る朝、村の者の荷船に便乗して発つその渡し場で、別れの一言さえ言えなかった。
僕は民さんそれじゃ……と言うつもりでも咽がつまって声が出ない。……小雨のしょぼしょぼ降る渡場に、泣きの涙も人目を憚り、一言の詞もかわし得ないで永久の別れをしてしまったのである。
── 同
舟は流れを下って早く、十分と経たぬうちに、二人の姿は雨の曇りに隔てられる。残された民子のことは、後に女中のお増が語っている――政夫さんに手紙をやりたいけれど、それが自分にはよく出来ないから口惜しいと言って、三晩も硯と紙を持ってきては、泣いていました、と。書きたい手紙は、とうとう一通も書かれなかった。
四
留守のあいだ
政夫が矢切を離れているあいだ、市川の実家では縁談が進んでいた。相手は市川の某という家で、財産は民子の生家に倍以上、向こうからの強っての所望で、媒妁人は生家が世話になっている人。是非やりたい、是非往ってくれ、ということになった。ただ一人、民子だけが「どうでもいや」と言って、泣いてばかりいる。
たっていやだと言う民子を無理に勧めて嫁にやったのが、こういうことになってしまった……
── 同(母の述懐)
誰も悪人ではない。母は民子を実の子のように可愛がっていた。それでも「年上を嫁には」という一点で、母も嫂も心を決めていく。幾度意見しても泣いて承知しない民子に、母はとうとう言う――お前がそう剛情はるのは政夫の処へ来たい考えからだろうが、それはこの母が不承知でならない、と。誰も、民子自身の意思を、最後まで確かめなかった。善意だけが、順々に手を貸していく。
こんな風に言われたから、民子はすっかり自分をあきらめたらしく、とうとう皆様のよい様にといって承知をした。
── 同
年の暮、帰省した政夫は母から聞かされる――民子は嫁に往った、と。僕は「はアそうですかと無造作に答えて出てしまった」。学校に戻れば「民子の事さえ考えればいつでも気分がよくなる」とさえ言う。彼の中の民子は、少しも損なわれていない。従順であることは、この物語ではいつも、決心が間に合わないことと同じ顔をしている。
五
六月十九日
霜月に祝儀をあげた民子は、承知したとは言っても、心はそこになかった。身ごもったが、六月に流れてしまう。あとの肥立ちが悪く、六月十九日に息を引き取った。三日のち、算術の解題に苦しむ政夫の机に「スグカエレ」の電報が届く。駆け戻った政夫の前で、母は帯を結うて蒲団の上に起きたまま、雨のような涙を落として、ようやく告げる。
政夫、堪忍してくれ……民子は死んでしまった……私が殺した様なものだ……
── 同
戸村のお祖母さんが、最期を語る。明け方に息を引き取った民子の、左の手には、紅絹の切れに包んだ小さな物が握られ、その手は胸の上に乗せられていた。家中の者で相談して、開いてみた。
それが政さん、あなたの写真とあなたのお手紙でありまして……
── 同
読み上げると、誰も彼も一度に声を立てて泣いた。民子の父も、男ながら大声で泣いた。――手紙を書きたいと三晩泣いた民子の手が、最後まで握っていたのは、政夫の写真と手紙だった。原文は、ここでも泣かない。死因を医学の言葉では語らず、ただ、握られていた物の名を静かに置くだけである。
六
墓に野菊
政夫は、民子の墓に参る。ふと気がついて、あたりを見まわすと、不思議に野菊が繁っていた。弔いの人に踏まれても、なお茎を立てて青々としている。あの日、民子が「私なんでも野菊の生れ返りよ」と言った、その花である。
民さんは野菊が大変好きであったに野菊を掘ってきて植えればよかった。……民さんは野菊の中へ葬られたのだ。
── 同
政夫はそれから七日のあいだ市川へ通い、民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。冒頭で野に咲いていた一輪は、めぐって、墓前の一輪になった。そして最後に、語り手はひとつの対句を、飾らずに置く。
民子は余儀なき結婚をして遂に世を去り、
僕は余儀なき結婚をして長らえている。
民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さずに持って居よう。
民子は、握った写真と手紙とともに世を去った。政夫は、余儀なき結婚をして、生き永らえている。そして彼の手もとには、消えない美しい追憶が残った。失われた側と、思い出を得た側。この非対称こそが、この短い物語のいちばん深いところにある。
彼は、彼女を花に譬えた。花は、摘まれても抗わない。
誰も悪人として書かれていない。母も、嫂も、世間も、そして政夫自身も。声を荒げた者はなく、手を上げた者もない。ただ、善意と従順と無自覚とが、順々に手を貸して、一人の人を野から手へ、手から墓へと移した。そのあいだ、矢切の空は一度も曇らず、土手の草はいつものように揺れていた。のどかな風景の無関心が、この物語では、いちばん静かな残酷になっている。
一節を、胸に置く
つくっているのは、47storiesJPという小さな仕事場です。著作権の保護期間が満ちた日本の文学から一節を選び、その物語の土地の実写と一枚の画に組んで、一県に一作、数えて四十七のTシャツにしています。千葉に選んだのは『野菊の墓』。言葉は伊藤左千夫の原文の一節、風景は松戸・矢切の実写、土手の道をゆく後ろ姿は生成AIが描いた架空の巡礼者で、実在の人ではありません。二人がいちばん幸福だった瞬間の言葉を、胸のあたりに静かに置く――それだけの一枚です。
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千葉 ── 伊藤左千夫『野菊の墓』
価格・仕様はSUZURIの商品ページでご確認ください。
言葉は伊藤左千夫『野菊の墓』の原文の一節。風景は、政夫と民子を隔てたあの渡しのある、松戸・矢切の土手道の実写です。道をゆく人物は生成AIが描いた架空の巡礼者で、実在しません。
のどかな野の、その裏側を話す
誰も悪人ではないのに、一人が野から墓へ移ってしまう――その仕組みは、どこにあったのか。この一冊を真ん中に挟んで、兄と妹が語り合った放送があります。善意はどこで暴力に変わるのか、家という器は何を閉じ込めたのか。文字で追ったのどけさの、その下を、声でもう一度。
#05 千葉 / 伊藤左千夫『野菊の墓』 / 善意の暴力と家制度の監禁ホラー