…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。

この音で目を覚ましたことのある人へ。

目が覚める。白い部屋。

——何度目、だろうか。

ドグラ・マグラ

夢野久作一九三五年・福岡

胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか

巻頭歌

断章 一巻頭歌は、巻末にある

白状すると、初読のとき、あの五行は素通りだった。扉の飾りだと思っていた。最後の頁を閉じて、しばらく天井を見て、それから何かを確かめたくなって、表紙をもう一度開く——指が止まる。胎児よ、胎児よ。読む前とは別の詩が、そこにある。誰が、誰に向かって「何故躍る」と問うているのか。「母親の心」とは、誰の心のことなのか。あの長大な遠回りの全部は、この五行をもう一度読むための助走だったのではないか。巻頭に置かれた歌を、私たちはいつも巻末で読む。だからこの歌は、読み返すたびに濃くなる。

断章 二福岡を出なかった人

夢野久作、本名・杉山泰道。福岡に生まれ、福岡で書き、福岡で死んだ。僧形になったことがあり、農園を営んだことがあり、能の舞台に立ち、新聞記者として街を歩いた。そのどの顔も捨て切らないまま、十年あまりを推敲に沈め、1935年1月15日、書き下ろしでこれを世に置いた。そして翌年、あっけなく逝ってしまう。まるで、この一冊を置くための生涯である。東京の文壇から遠かったことを、惜しむ気にはなれない。中央の流行に均されなかったからこそ、この異形は異形のまま守られた。物語のあの部屋を、自分の街の帝国大学に置いたことまで含めて、何ひとつ借り物がない。

断章 三チャカポコを数える

数えた。青空文庫版の本文で、「チャカポコ」は二百三十回鳴る。例の『キチガイ地獄外道祭文』——正木先生が大道で人を集めて配って廻った、あの阿呆陀羅経の節である(表記は青空文庫版に従う)。作歌の名義を覚えているだろうか。墺国理学博士・独国哲学博士・仏国文学博士、面黒楼万児。肩書きが三つに、名前がひとつ。あの名義を思い出すたび、こちらの頬がゆるむ。あそこで一度本を置いた、という告白をときどき見かけるが、責める気にはなれない。二周目にいちばん効いてくる節だからだ。スカラカ、チャカポコ。読み終えた耳には、もう祭の囃子にしか聞こえない。

断章 四二つの唸り

知られる通り、物語は柱時計の唸りに始まり、柱時計の唸りに終わる。では——二つの唸りを、原文の表記のまま並べて見たことはあるだろうか。

冒頭の一行 …………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
末尾の一行 ……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………。

同じ音ではないのだ。最初の唸りは棒線で長く引き延ばされ、最後の唸りは点の中へ沈んでいく。これを校正の揺れと片付ける勇気は、私にはない。あの結末のあとに鳴る「ブウウウ」が、最初の「ブウウ」と同じ音であってよいはずがないからだ。円環は、閉じている。そして、閉じるたびにわずかにずれる。疑うなら、青空文庫でいつでも確かめられる——最初の一行と、最後の一行で。

RECORDNo.40 / FUKUOKA

標題
ドグラ・マグラ
著者
夢野久作(本名 杉山泰道、1889-1936
初版
1935(昭和10)年1月15日、松柏館書店。書き下ろし
舞台
九州帝国大学医学部精神病科の一室
惹句
「幻魔怪奇探偵小説」(初版時)
伝説
「これを読む者は一度は精神に異常をきたす」の句は初版になく、1976年の角川文庫版に始まる。現行の文庫紹介文にも生きている
表紙
角川文庫旧版の表紙画は米倉斉加年。俳優にして、画家
分類
日本三大奇書の一つに数えられる
全文
青空文庫に収蔵(底本:ちくま文庫「夢野久作全集9」)

伝説の句を初版のものと書いている資料に出会ったら、そっと訂正してあげてほしい。

胸に、巻頭歌。

夢野久作『ドグラ・マグラ』のTシャツ。白地に九州大学の石造りの門の風景と、縦組みの巻頭歌をあしらったデザイン

白い生地は、あの部屋の白。胸には物語の舞台・福岡市 九州大学の石造りの門の風景と、縦組みの巻頭歌。街ですれ違って、この一枚の意味に気づく人は、そう多くない。だからこれは、読んだ者どうしの、静かな合図になる。

ここで、つくり手のことを少しだけ。47storiesJP といいます。著作権の切れた日本の文学から、47の都道府県ごとにひとつ作品を選び、その一節を、物語の舞台となった土地の風景と一枚に組んで、Tシャツにしています。言葉は作家の原文。図の中の人物だけが、生成AIの描いた架空の巡礼者で、実在しません。福岡は、この『ドグラ・マグラ』です。

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福岡市・九州大学の石造りの門。アーチの下にしゃがむ巡礼者の姿と、縦組みの巻頭歌「胎児よ胎児よ何故躍る」を配したグラフィック
言葉は夢野久作の原文。風景は実写、物語の舞台となった福岡市・九州大学。門の下に立つ人物だけは、生成AIが描いた架空の巡礼者であり、実在しない。

音声の綴り

読んだ者同士の話が、残っている。

作品討論ラジオ、第26回。
この一篇を「近代合理主義への反逆と極限の搾取」という主題で、
一時間ほど話しています。
読み終えて、まだこの本の話をしたくなったら。

第26回を聴く(Spotify)

……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………。