静岡・熱海 一月十七日の夜

金色夜叉

宮は再び恋き貫一の名を呼びたりき。
「打霞みたる空ながら、月の色の匂滴るるやうにして、微白き海は縹渺として限を知らず、譬へば無邪気なる夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠げに怠りて、吹来る風は人を酔はしめんとす。打連れてこの浜辺を逍遙せるは貫一と宮となりけり。」
「波は漾々として遠く烟り、月は朧に一湾の真砂を照して、空も汀も淡白き中に、立尽せる二人の姿は墨の滴りたるやうの影を作れり。」
「一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか! 再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」
「私は放さない」
「剛情張ると蹴飛すぞ」
「蹴られても可いわ」
貫一は力を極めて振断れば、宮は無残に伏転びぬ。
「貫一さん、それぢやもう留めないから、もう一度、もう一度……私は言遺した事がある」
「宮さん!」
「あ、あ、あ、貫一さん!」
波は悲き音を寄せて、一月十七日の月は白く愁ひぬ。
宮は再び恋き貫一の名を呼びたりき。
尾崎紅葉『金色夜叉』前編・結び

未完の月

『金色夜叉』は『読売新聞』に 一八九七(明治三十)年一月一日 から 一九〇二(明治三十五)年五月十一日 まで連載され、尾崎紅葉の死(一九〇三年)により未完のまま遺されました。

「僕の涙で必ず月は曇らして見せる」——熱海の渚で交わされたその約束の続きは、紅葉の筆では書かれないままになった。物語のなかで、あの月はまだ曇っていない。

この一枚について

熱海の夜を、一枚に

尾崎紅葉『金色夜叉』静岡の図案。熱海の海岸に立つ人物と、縦組みの一節。
図案
図案をプリントした長袖Tシャツ。
Tシャツ

つくっているのは、四十七の物語をその土地の風景と組みあわせる小さな仕事場・47storiesJPです。静岡の一枚には、尾崎紅葉が熱海の渚に書きつけた別れの夜を選びました。

図案にのせた言葉は、すべて紅葉の原文(青空文庫版を底本)からそのまま採っています。訳したり言い換えたりはせず、明治の文語のまま置いています。読みくだしにくい一行かもしれませんが、そのぶん、あの夜の手ざわりが残っていると思います。

静岡『金色夜叉』のTシャツは販売中です。

いまの熱海の海岸。曇り空の下、渚を歩く人物。
いまの熱海 人物は、生成AIが描いた架空の巡礼者。

ラジオ

熱海の一夜と『金色夜叉』をめぐる回。歩きながら聴くのに向いています。

#06 静岡『金色夜叉』を聴く