47storiesJP 47の物語奈良

くれがた奈良に著いた。

翌朝、窓掛けをあける。

「やっと窓をあけてみると、僕の部屋がすぐ荒池に面していることだけは分かったが、向う側はまだぼおっと濃い靄につつまれているっきりで、もうちょっと僕にはお預けという形。なかなかもったいぶっていやあがる。」

堀辰雄

大和路・信濃路

一九四一年十月十日から二十七日まで、堀辰雄は奈良ホテルにこもりました。目当ては、古代を舞台にした小説を書きはじめること。滞在の日録は、妻に宛てた便りのかたちで残っています。小説は、一行も書き出せないまま終わります。この頁は、そのはねつけられつづけた十七日を歩くものです。

読みもの 一

イディルとは、「小さき絵」のこと

着いて二日目の朝、彼は食堂に下りる前に計画を立てる。「とにかく何処か大和の古い村を背景にして、Idyll 風なものが書いてみたい」。そして「出来るだけそれに万葉集的な気分を漂わせたいものだ」。イディルという様式については、便りの中でわざわざ講義までしてみせる——ケーベル博士によれば、ギリシア語で「小さき絵」というほどの意。物静かな環境に生きる素朴な人たちの、自足した生活だけを描くこと。

主題の選びかたが変わっている。「なまじっかこっちで主題を選ぼうなどとしないで、どいつでもいい、向うでもって僕をつかまえるような工合にしてやろう」。つまり彼は初日から、主題を自分で選ばないと決めている。この滞在の主導権は、最初から大和の側にある。彼に出来るのは、掴まえられやすそうな場所まで歩いて行くことだけだ。

日録がこのあとずっと記録するのは、歩いて行くことの全部である。そして、掴まえに来るものは、計画とはことごとく別の方角から来る。

読みもの 二

白い道の先で、はねつけられる

計画を立てたその足で、彼は佐保路へ向かう。千年前には大伴氏の邸宅が並び、柳の並木が貴公子たちに木蔭をつくっていたあたりは、「いまは見わたすかぎり茫々とした田圃で、その中をまっ白い道が一直線に突っ切っているっきり」。背中が熱くなるほどの日ざしに歩かされて、小説どころではない。

海竜王寺という小さな廃寺に入る。崩れかけた四脚門の陰から振り返り、稲の穂波の拡がりを眺めて、「ああ、この明るい温かな平野が廃都の跡なのか」と考える。荒れた堂を櫺子ごしにのぞいて天平の化粧天井を見上げ、白壁に残る村の子供の楽書を一つ一つ読み、小一時間が消える。寺を出て柿を二つ買い、皮ごと噛りながら反省する。「どうしてこうおれは中世的に出来上がっているのだろう」。万葉を捜しに出た日の収穫が、中世の廃頽と、子供の楽書なのだ。

歌姫という字名の村では、仏蘭西の農家のような明るい中庭を門の外からのぞきこみ、働く女たちに見とがめられ、しまいには村の子供五六人に取り囲まれて、追われるように村を出る。逃げ込んだ先が鎮守の森だった、という落ちまで、日録は正直に書いている。

計画のほうは一向に進まない。ただ、読み返すと気がつくことがある。はねつけられた日の記述ほど、手が動いている。掴みそこねたものの目録が、そのままこの作品の本文になっている。

じつは計画より前——着いた翌日の夕方に、最初のひとつは来ていた。唐招提寺の金堂。西日が古い扉にあたって、ほとんど色の褪めた花の文様が五つ六つ、妙にくっきりと浮かび出ていた。手で触れてみようとしかけて、ためらう。「それが僕のこのとききりの幻であってくれればいい」という気もしていた、と便りは言う。

扉の面に、西日が動く。

「そのうちそこの扉にさしていた日のかげがすうと立ち去った。それと一しょに、いままで鮮やかに見えていたそのいくつかの花文も目のまえで急にぼんやりと見えにくくなってしまった。」

見えるのは、日があたっているあいだだけ。
この滞在で古代がとる来かたの、これが最初の一回だった。

その三日のちの夕方、もう一度、西の京へ。日の落ちた唐招提寺は、軒も柱も扉も灰いろに沈み、白壁だけが明るく残っていた。彼は金堂の石段にあがり、吹き放しの円柱の一本に近づいて、手のひらを押しあてる。

「そうやってみていると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ温かい。ほんのりと温かい。その太い柱の深部に滲み込んだ日の光の温かみがまだ消えやらずに残っているらしい。」

顔を柱にすれすれに寄せると、日なたの匂いまで幽かに残っていた。彼はその温みを「何か貴重なもののようにかかえながら」、真っ暗になった門を出る。古代はこの滞在では、いつもこういう来かたをする。狙って行った昼には出ず、諦めて帰りかけた夕方の、手のひらに来る。

読みもの 三

机の上で、計画が倒れる

夜のホテルでは、分が悪い。ソフォクレスを読んだ晩は、「果して午後読んだ希臘悲劇が邪魔をする」。万葉集をひらき、埴輪の写真を机に並べ、「五つか六つぐらい物語の筋を熱心に立ててみたが」、手にとって仔細に見るとどれも難物に化けて、観念して寝る。別の晩は一時ちかくまで粘ったあげく、「半分泣き顔をしながら、寝床にはいった」。それでいて昼間歩いたぶんよく眠れるので、「愛想がつきる位だ」。弱音はそのまま便りになる。「もう少し辛抱をして、次ぎの手紙を待っていてくれ」。

雨の日には部屋から出ず、荒池をながめながら折口信夫の「古代研究」を読む。そこで出会うのが、人妻となって子を生んだ狐、葛の葉だ。乱菊に見とれているうちに本性に返ってしまうその顔つきが、「何んとも云えず美しくおもえた」。便りはこう結ばれる。「僕も、その狐のやつに化かされ出しているのでないといいが……」

数日後の朝、買い集めてあった霊異記や今昔物語を繰っていて、狐の話ではない或る物語が目に止まる。自分を与えれば与えるほど、いよいよはかない境涯に堕ちてゆかなければならなかった一人の女の身の上話。「これならば幸先きがよい」。天平の光を書くつもりで来た人の机に、最後まで残ったのは、中世の、ふしあわせな女だった。計画が倒れて、性分が勝った。

十月二十一日。ホテルで行き合わせた小説家のA君たちと、僧侶の案内で、いつも松林ごしに外から見るだけだった戒壇院の中へ、はじめて入る。がらんとした堂の中は思ったより真っ暗で、開け放した四方の扉からも光は僅かしか届かない。壇上の四隅の四天王が、それぞれ一すじの逆光をうけて立っている。彼は広目天の前から動かなくなる。

「なにしろ、いい貌だ、温かでいて烈しい。……」

戒壇院 広目天

これはきっと誰か天平の一流人物の貌をそのまま模したものだと睨み、この貌に似合う天平びとは誰だろうと、彼はいつまでも想像している。帰りぎわ——「数分後、戒壇院の重い扉が音を立てながら、僕たちの背後に鎖された。」堂の中は、また四天王だけになる。

読みもの 四

一日に、一寸平方

滞在の終わりちかく、彼は法隆寺の金堂に入る。中では十人ばかりの画家が足場に上がり、壁画の模写をしている。いつ来ても暗くて剥落しか見えなかった四仏浄土が、蛍光灯の光で隅々まで浮かび上がり、陰にはまだ目のさめるような紅や緑や紫が残っている。

顔なじみの画家Sさんの櫓に上げてもらう。絵道具の散らばった狭い足場に身じろぎもならず坐りきりで、一日じゅう仕事をして、「一寸平方位の模写しかできないそうだ」。何もない傷痕ばかりを描いているうちに、一と月が経ってしまうこともあるという。「いまにも此の世から消えてゆこうとしている古代の痕」を、そのままに写しとる仕事である。

この壁画は、八年後の一九四九年一月、火災で大半が焼け失われました。のちに金堂へ納められた再現壁画の拠りどころのひとつが、この画家たちの模写です。

宝蔵では、一番好きだという百済観音のまえに立つ。胸の前で何を持っていたのだかも忘れてしまっているような手つき、いまにも取り落としそうな水瓶。国から国へ、寺から寺へさすらってきたらしい像を、彼はためつすがめつ、いつまでも一人で見ている。書けない小説を抱えた人が、消えかけた絵を一寸ずつ写す人たちの足場の下に立ち、行く先を何度も変えてきた像のまえに立っている——滞在の終わりの二日間は、そういう並びになっている。

十月二十四日、日暮れ。浅茅が原から、高畑の裏の小径へ。

「こうして築土のくずれた小径を、ときどき尾花などをかき分けるようにして歩いていると」

「ふいと自分のまえに女を捜している狩衣すがたの男が立ちあらわれそうな気がしたり」

「何処かから女のかなしげにすすり泣く音がきこえて来るような気がして、おもわずぞっとしたりした」

これならば好い。
僕はいつなん時でも、
このまますうっと
その物語の中に
はいってゆけそうな気がする。

はねつけられつづけた男のところへ、最後の夕方、物語のほうから来ました。この夕方に掴んだ物語は、のちに『曠野』という題で書かれます。同じ本の「死者の書」の章に、堀辰雄自身がそう書き残しています。

十月二十七日の朝、彼は奈良を立つ。小説はまだ一行も書かれていない。構想だけをすっかり仕上げて、書くのは妻の傍で、と決めて。——冒頭の朝、窓の外をつつんで奈良を見せなかった靄を、思い出してほしい。下の一枚は、いまの鷺池・浮見堂で撮った実写である。同じような靄の中に、今度は、鹿と人が立っている。

奈良ホテルは一九〇九年開業の本館が、いまも荒池のそばで営業しています。彼が歩いた高畑も、唐招提寺の円柱も、戒壇院の広目天も、そのままあります。鹿は、いまも奈良のそこらじゅうにいます。

この一枚
白い長袖シャツ。霧の鷺池で鹿としゃがんで向き合う人物の写真に、「僕はいつなん時でも、このまますうっとその物語の中にはいってゆけそうな気がする」の縦書き。
胸のところに、鷺池とこの一文を載せています。

胸にあるのは、物語の中へ入ってゆけそうだと書いた一文と、いまの鷺池の実写です。

つくり手は47storiesJP。奈良は堀辰雄の、この一文です。

未販売です。

声がまとまった時点でつくります。受付はこのフォームです。

製品化をリクエストする
作品討論ラジオ

第四十三回で、『大和路・信濃路』の奈良を語っています。

#43 奈良『大和路・信濃路』を聴く