47storiesJP47の物語
四十七分の三十二
いらっしゃいませ。夜分のお運び、恐れ入ります。
当屋敷の演目は、三つの間と、最奥にひと間。芳一の間、雪女の間、貉の間——どれも古い、よく効く話ばかりでございます。
灯は道々で尽きますが、どうぞ、お気になさらず。
目の見えない琵琶法師・芳一は、壇ノ浦の合戦を語らせれば並ぶ者がない名手である。その芳一のもとへ、夜ごと、鎧の音が迎えに来る。連れて行かれた先の広間はしんと格式高く、一段を語り終えるたび、居並ぶ聴き手のすすり泣きが聞こえた。……よい聴き手だった。生きてさえいれば。
雨の夜、寺の男たちが提灯を掲げて探しまわると、芳一は阿彌陀寺の墓地にいた。安徳天皇の墓の前にただ一人坐り、墓の上という墓の上に死者の霊火が蝋燭のように燃える中で、壇ノ浦の曲を高く誦していた。このままでは取り殺される。住職の立てた策はひとつ——芳一の身体を、経文で埋め尽くすことだった。
「胸、背、頭、顔、頸、手足――身体中どこと云わず、足の裏にさえも――般若心経というお経の文句を書きつけた」
——『耳無芳一の話』(戸川明三訳)より
経文に覆われた身体は、亡霊の目に映らない。声さえ立てなければ、夜は明ける。はたして迎えの跫音は縁側で止まり、名を呼び、返事のないことに苛立ち——それから、芳一のすぐ傍で、こう言った。
『ここに琵琶がある、だが、琵琶師と云っては――ただその耳が二つあるばかりだ!……道理で返事をしないはずだ、返事をする口がないのだ』
——『耳無芳一の話』(戸川明三訳)より
書き漏らしは、耳だけだった。亡霊は律儀である。見えたものを、命じられた通りに、持って帰った。
守りは、塗り残した一寸から破れる。そしてその一寸は、闇の中でいちばん白く光る。
——書いた場所と、書かなかった場所。
大吹雪の晩、渡し守の小屋に、木こりの茂作と巳之吉が閉じ込められる。火の気のない二畳敷で、老人はすぐ眠り、若い巳之吉も風の音を聴きながら眠りに落ちた。……夜半、顔に降りかかる雪で目がさめる。戸は開いていた。雪明かりの中に、全く白装束の女が立っていて、茂作の上に屈み、白い煙のような息を吹きかけていた。それから女は、巳之吉の方へ振り向いた。
恐ろしい目のまま、大層綺麗だった。女は若い巳之吉を殺さない。代わりに、条件をひとつだけ置いていく。
『もしあなたが今夜見た事を誰かに――あなたの母さんにでも――云ったら、私に分ります、そして私、あなたを殺します。……覚えていらっしゃい、私の云う事を』
——『雪女』(田部隆次訳)より
言わなければいい。それだけである。そして巳之吉は言わなかった。十八の冬から、色の白いよく働く女房を迎え、十人の子の父になるまで、ただの一度も。……ある晩、行燈の明かりで針仕事をする女房の横顔が、あまりに白く、あまりに綺麗で——つい、昔ばなしをした。若い時分、一度だけ、お前にそっくりの人を見た。あれは夢だったか、それとも雪女だったか。
針を持つ手が、止まる。
『それは私、私、私でした。
……それは雪でした。』
——『雪女』(田部隆次訳)より
彼女は殺さなかった。そこに眠っている子供らがいたからである。叫ぶ声は風のように細くなり、輝く白い霞になって、煙出しの穴から出て行った——「もう再び彼女は見られなかった。」
いちばん大事な約束は、いちばん安心した夜に破れる。この部屋が寒いのは、そのせいである。
この話だけは、島根を離れて東京・紀国坂。街灯のない時代、日が暮れると誰も通りたがらない、濠端の暗い坂である。夜更けにそこを急いだ商人が、濠の縁にうずくまって、ひどく泣いている女を見つけた。身を投げるのではないかと案じて、声をかける。女は良家の娘らしい綺麗ななりで、袖に顔を隠して泣くばかり。なだめる商人の前で、女はゆっくり向き直り、袖を落とし、手で自分の顔を撫でた——目も、鼻も、口もなかった。
商人は悲鳴を上げて坂を駆け上がった。振り返る勇気もなく走り続けた先に、蛍火ほどの提灯がひとつ。屋台の蕎麦屋である。人の灯だ。商人はその足下に身を投げ倒し、息も継げずに切れ切れに訴えた。女が、濠の縁で、その女が見せたのだ——ああ、何を見せたか、それは言えない。すると。
『へえ! その見せたものはこんなものだったか?』と蕎麦屋は自分の顔を撫でながら云った――それと共に、蕎麦売りの顔は卵のようになった……そして同時に灯火は消えてしまった。
——『貉』(戸川明三訳)より
怪異は、逃げた先で待っている。それも、こちらが「助かった」と思う場所を選んで。……ところで、灯が消える話が出たところで、ちょうどようございます。次の廊下は、百物語。
百物語——怪談を百、語り合う夜の遊びである。一話終えるごとに灯りをひとつ消してゆき、百話目が終わって最後の灯が消えたとき、本物が現れると言い伝えられた。ここの灯は、夜が更けるにつれて消えてまいります。
……最後の一灯が、いま消えました。
もう、うしろにいます。
振り向かずに、最奥へどうぞ。
目が慣れた頃合いに、最後のひと間を。ここにあるのは、脅かす話ではない。怖い話の顔をして入ってくる、約束の話である。越後の医者の子・長尾には、お貞という許嫁がいた。十五の年、お貞は不治の病で死の床につく。別れに来た長尾に、生まれ変わってもう一度戻って来られたら、と言い残す彼女へ——それをどうやって見分ければいいのか、と長尾は問うた。返事が、これである。
「どこでどうしてあうか
神仏だけが御存じです。」
『しかしきっと本当にきっと、もしあなたがおいやでなければ私はあなたの処へかえって来る事ができます。……それだけ覚えていて下さい』
——『お貞のはなし』(田部隆次訳)より
そう言って目を閉じ、彼女は死んだ。……歳月が過ぎる。両親を亡くし、妻子を亡くし、ひとりになった長尾は、悲しみを忘れるための長い旅の途中、温泉の村・伊香保に着く。宿で給仕に出た若い女は、死んだはずの許嫁とそっくりの顔をしていた。名を尋ねられた娘が、忘れるはずのないあの声で何と答えたか——そこから先は、屋敷では語らない。原文にあたっていただくのがいちばんいい。
『怪談』という一冊は、脅かすだけの本ではない。死んでなお残るもの——恨み、未練、そして約束——の目録である。怖さと切なさは、同じ扉の裏表につく。
土産は一種きり。白い一枚——胸に、朱の鳥居の道と、お貞の約束の言葉を刷ったTシャツである。怖い話が好きだという旗は、夏の夜にいちばんよく翻る。
主を名乗っておきますと、47storiesJPと申します。著作権の切れた日本の名作を県ごとにひと作選び、その言葉を土地の実写風景に重ねて一枚に刷っています。島根の一枚が、この『怪談』。言葉は八雲の英文のパブリックドメイン日本語訳から、風景は津和野の実写、写真に立つ人物は生成AIが描いた架空の巡礼者で、実在しません。
47storiesJP
「どこでどうしてあうか神仏だけが御存じです。」
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#29 島根 / 小泉八雲『怪談』
家制度と死に抗う運命のハッキング
四十七の物語をひとつずつ話してゆくラジオの島根回。題にいわく、お貞の約束は「家制度と死に抗う運命のハッキング」——死んでも会いに来るという言葉を、諦めではなく抗いとして聴く回である。
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