速く登った人
藤村操は、階段を速く登った。北海道に生まれ、札幌の中学から東京の中学へ、飛び級を挟んで、明治三十五年、十六歳で第一高等学校に入る。黒い制帽と制服は、この国でいちばん確かな将来のしるしだった。一高から帝国大学へ、帝国大学からそのさきへ——道はすでに照らされていて、あとは登るだけでよかった。
- 札幌中学
- 東京・開成中学
- 京北中学(飛び級)
- 第一高等学校
- (帝国大学へ)
立身出世がほとんど国是だった時代である。そして同じころ、登ることそのものを疑う気分が、ほかならぬ最もよく登る青年たちのあいだに広がりはじめていた。人生とは何か。登った先に、何があるのか。時代はこの気分に「煩悶」という名を与え、煩悶する青年たちを持て余した。
何にでもなれると言われつづけることは、静かな重さである。眺めのよい場所ほど、頂のさきに何もないことがよく見える。操の煩悶が正確に何だったのかは、結局、誰にも分からない。分かっているのは、明治三十六年五月二十一日、彼が黙って東京を離れ、ひとり日光へ向かったことである。
巌頭之感
翌二十二日、華厳の滝。操は滝口の巌頭に立つミズナラの幹に、題を持つ短い文章を書き残した。全文は、これだけである。
悠々たる哉天壌。遼々たる哉古今。
五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチーを価するものぞ。
万有の真相は唯一言にして悉す。曰く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。
藤村操の遺書、全文。表記は青空文庫「巌頭の感」(底本=『現代日本記録全集16 青春の記録』筑摩書房・1968年)に拠る。
天と地を相手にする書き出し
悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今——まず天地と古今、つまり空間と時間の全部を呼び出して、それを「五尺の小躯」ではかろうとした、と十六歳は書く。ホレーショの哲学とは、『ハムレット』の一節、天地のあいだにはおまえの哲学の夢みるより多くのものがある、を指すとされる。英文学の徒が、シェイクスピアまで勘定に入れたうえで、なお足りないと言っている。遺書というものが帯びるはずの湿り気は、ここには一滴もない。あるのは漢文の格調と、奇妙なほどの晴れやかさである。
その中央に、あの一語が置かれる。万有の真相は分からない——結論だけなら、哲学の歴史に珍しいものではない。この文章が恐ろしいのは、そのさきである。
既に巌頭に立つに及んで、
胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。
遺書、結びの一文
魅了の正体
巌頭に立つに及んで、不安がひとつもない——遺書全体を通して、感情と呼べるものはこの晴れやかさだけである。煩悶の階段、約束された将来、答えの出ない万有。載っていた重さの全部を、「不可解」の一語が無効にする。分からない、と言い切った瞬間、荷は五尺の小躯を離れ、天壌と古今の側へ返される。大の字に立つような自由。それが、巌頭の文がいまも放っている眩暈である。
人々を魅了したのは、死ではない。解放だった。悲観を極めれば楽観に一致する、と十六歳が言い、言っただけでなく、その通りに晴れやかだった。この一点が、同じ階段の途中にいた無数の青年に、出口の光のように見えた。そして、ここからがこの文章の恐ろしさである。
水煙のあと
投身の五日後には、新聞が遺書の全文を載せていた。遺体は、まだ見つかっていなかった。エリート学生の哲学的な死は、たちまち時代の事件になる。「不可解」は流行語になり、煩悶は世代の名になった。そして華厳の滝には、あとを追う者が相次いだ。巌頭には警官が立ち、思いとどまらせては連れ帰った。遺書の書かれたミズナラは文字を削り取られ、のちに木ごと伐られた。文字を消しても、文章はすでに新聞のなかで生きていた。
一高で操の組の英語を受け持っていたのは、教師時代の夏目漱石だったと伝えられる。死の数日前、課題をめぐって操を叱ったという話が残り、漱石はこの死を長く引きずったといわれる。逸話の細部は資料によって揺れる。揺れないのは、ひとりの死が教壇の側にも消えない染みを残した、ということである。
一篇の文章の魅了が、そのまま現実の力になる——報じられた死があとを追う死を呼ぶ現象を、のちの言葉はウェルテル効果と呼ぶ。巌頭之感は、その、この国で最も知られた例である。解放の歓びを描き切った文章は、読む者のなかの同じ場所へ、まっすぐ届いてしまう。だからこの短文は、名文であることをやめないまま、恐ろしい文章でありつづけている。
あれから百二十年あまり。中禅寺湖から流れ出た水は、今日も九十七メートルを落ちつづけている。
巌頭の木はもうない。文章だけが、紙の上に残った。
わからない、を掲げる。
白いTシャツの胸に、雪の華厳の滝と、縦組みの一行——万有の真相は唯一言にして悉す、曰く「不可解」。白は生地の白であり、水煙の白である。答えを持っているふりをしない、という静かな表明のための一枚で、どこか喪章に似ている。
名乗りをひとつだけ。47storiesJPは、著作権保護期間の満了した日本文学から都道府県ごとに一作を選び、その言葉を物語の土地の実写の風景と組んで、Tシャツにしています。言葉は藤村操の遺書「巌頭之感」の原文、風景は日光市・華厳の滝。写真のなかで滝を見上げる人物だけは、生成AIが描いた架空の巡礼者で、実在しません。栃木の一作が、この文章です。
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討論の記録
魅了の仕組みを、声で解きなおす。
第4回 栃木/藤村操『巌頭之感』
「ウェルテル効果と凄惨な生存闘争」
一篇の遺書と、そのあとの時代の話。