Homme libre, toujours tu chériras la mer.
Baudelaire.
自由の人よ。君は常に海を愛せん。
ボオドレエル。
人間から遠ざかりたかつた。
自分は唯広々した大きな景色が見たかつた。
——海は実に大きく自由である。
八月の中旬横浜から上海行の汽船に乗つて、神戸門司を経て長崎に上陸し、更に山を越えて茂木の港に出で、入海を横切つて島原半島に遊んだ後、帰り道は同じく上海より帰航の便船をまつて、同じ海と同じ港を過ぎて横浜に上陸したのである。二週日の間自分は海ばかりを見た。島と岬と岩と船と雲ばかりを見た。永井荷風『海洋の旅』
海 の 見 聞
永井荷風『海洋の旅』
- 岬の岩角を噛む恐しい波の牙を見た。
- 緑色した島の上に立つ真白な灯台を見た。
- 山の裾に休息してゐる哀れな漁村の屋根を見た。
- 暗夜に舷を打つ不知火の光を見た。
- 水夫が叩く悲しい夜半の鐘の音を聞いた。
四日目の朝に、自分は絵のやうに美しく細長い入江の奥なる長崎に着いたのである。長崎は京都と同じやうに、極めて綺麗な、物静かな都であつた。石道と土塀と古寺と墓地と大木の多い街であつた。花の多い街であつた。
自分は未だ嘗て長崎に於けるが如く、軟かな美しい鐘の音を聞いたことは無い。
入日と共に空気は死するが如くに沈静し、木葉一枚動かぬやうな森閑とした黄昏——
最初に撞出された響が長く空中に漂つてゐる間に新しく撞出される次の響が後から後から追ひかけて来て互に相縺れ合ふのである。
縺れ合ふ鐘の余韻は、早やたつぷりと暮れ果てた灯火の港を見下す自分の心に向つて、お前は何故もつと早く此処へ来なかつたのだ。東京はもうお前の住むべき処ではない。早く俗縁を断つて、過去の繁華を夢に見つゝ心地よく衰頽の平和に眠つて行く此の長崎に来い………と諭してくれるやうにも思はれた。
永井荷風『海洋の旅』
汽船は海上四日の後横浜に着いた。
人家の屋根の上には梅毒の広告が突立つてゐる大きな都会。
電車の停留する四辻では噛み付くやうな声で新聞の売子が、「紳士富豪の秘密を暴きました………。」と叫んでゐる恐しい都会。
長い竹竿を振り廻して子供が往来の通行を危険にしてゐる乱雑な都会。
市民と市吏と警察吏とが豹変常なき新聞記者を中間にして相互の欠点を狙ひ合つてゐる気味悪い都会。
その片隅に嗚呼自分の家がある。
明治四十四年九月
永井荷風『海洋の旅』
だから、もう一度、海へ。
47storiesJP は、日本の四十七都道府県をパブリックドメインの文学で巡るTシャツの試みです。言葉は永井荷風『海洋の旅』の原文(青空文庫の底本)、風景は長崎の実写、坂に立つ人物は生成AIが描いた架空の巡礼者。海へ出て、また港へ帰る——その一行を、胸のあたりに置いています。