47storiesJP 長野

長野

島崎藤村

『破戒』

Hakai — The Broken Commandment, 1906

「隠せ――戒はこの一語で尽きた。

Conceal it. — The commandment was summed up in this single word.

── 島崎藤村『破戒』(一九〇六年)より

父の一語

十六の春、はじめて親元を離れる息子に、父はひとつの物語と、ひとつの約束を残した。教員を志して家を出る、晴れがましい日である。餞は金でも学問の心得でもなく、生涯でただ一度きりの、封印の言葉だった。

『たとへいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅めぐりあはうと決してそれとは自白うちあけるな、一旦の憤怒いかり悲哀かなしみこのいましめを忘れたら、其時そのときこそ社会よのなかから捨てられたものと思へ。』

── 島崎藤村『破戒』より

呪いの形をした、愛である。父は世の中を知っていた。素性の知れた者がどう扱われるかを知り抜いていたから、守るために封をした。息子の口に――というより、息子の一生に。父自身も人目を避け、烏帽子ヶ岳の奥の牧場にひとり隠れ棲むようにして、息子の出世だけを祈った。

瀬川丑松は、その戒めを守って大人になった。長野師範を優等で出て、雪深い飯山の小学校で教壇に立つ、生徒に慕われる青年教師。彼が被差別部落の生まれであることを、この町では誰ひとり知らない。戒めは効いていた。効いているあいだじゅう、彼の内側を静かに削りながら。

『隠せ』――実にそれは生死いきしにの問題だ。

── 同

ムラ

雪に埋もれた飯山は、寺の多い、静かな町である。恐ろしいものは何も見当たらない。実際、誰も殴らない。誰も怒鳴らない。ただ、噂が先に歩く。

作中、丑松の下宿に泊まった裕福な男が、飯山の病院に入院する。やがて、どこからともなく声が立つ。あの人は――らしい。それだけで病棟は総立ちになり、追い出せと院長に迫った。ある日の暮れ、男は駕籠に乗せられ、夕闇にまぎれて病院を出て行く。診察を続けた院長も、騒ぎの前では患者ひとり守れない。戻った下宿でも、客たちが「主婦を出せ」と喚き立てた。石を投げた者は、ひとりもいない。名乗り出る加害者のいない暴力が、ひとりの人間を音もなく町から消した。

その一部始終を見た丑松は、宿を替える。憤りからか、恐れからか――おそらく、その両方から。ざわめきは翌日も町に降り積もって、雪と同じで、誰の仕業でもない顔をしている。彼はこの町で、いつも窓の内側に立っている。外からは見えても、胸の内は誰にも聞こえないように。

木造校舎の長い窓。ガラスの内側に、生成AIが描いた架空の巡礼者がひとり立ち、外を見上げている。長野・飯田の実写
長野・飯田の木造校舎の実写。窓の内に立つのは、生成AIが描いた架空の巡礼者――実在しない。

先人

その丑松に、ひそかに読み続けた本があった。著者の名は猪子蓮太郎。思想家であり、闘う書き手であり――そして、素性を公言して生きる、同じ生まれの先人である。丑松が誰にも言えずにいることを、この人は署名入りの本に書き、演壇で語った。世間は彼を病的と嗤い、変わり者と呼んだ。それでも書くことをやめなかった。

読めば読む程丑松はこの先輩に手を引かれて、新しい世界の方へ連れて行かれるやうな気がした。

── 島崎藤村『破戒』より

ただし丑松は、その本を机の下に隠して読んだ。素性を疑う政敵に問い詰められた日には、『懇意でも有ません、関係は有ません、何にも私は知りません』と、三度まで心を偽った。夜にはひとり、蔵書に捺した自分の認印を墨で塗り消して、古本屋に売り払いさえした。この社会では、先人を敬うことすら証拠になるからだ。『先生、許して下さい。』――誰にも聞こえない詫びだけが残った。

当の猪子は、病んだ肺を抱えて生きていた。どんな苦しいことがあっても訴えるな、世間の人の睨む通りに睨ませておいて――『黙つて狼のやうに男らしく死ね』。それがこの先人の主義だったと、作中で語られる。そしてその通りに死んだ。大雪の飯山へ友人の応援演説に乗り込み、壇上で血を吐きながら不正を満場に暴いて、その夜、会場の寺の門前で襲われて、雪の上に倒れた。丑松が駆けつけたときには、もう間に合わなかった。手を下した壮士たちは後日、縄付きで町を引かれていく。

遺骸を戸板で運ぶ列に付き従いながら、丑松は考える。この人は名乗って、書いて、それでも人に用いられて生きた。自分はその人の棺の前でさえ、まだ名乗れずにいる。夜更けの四つ辻で、丑松は声を放って慟哭した。翌朝、机に向かって進退伺を書いたとき、あの一語の戒めを、彼は初めて自分の手で取り出したのである。

告白

決意から教室まで、一夜と半日。ここから先は、藤村の文がすべてを言う。

仮令たとひ誰が何と言はうと、今はその戒を破り棄てる気で居る。

破戒――何といふ悲しい、いさましい思想かんがへだらう。

最後の日の三時間目は、習字だった。いつもの通り、生徒の背後に廻って、その手に手を添えてやる。

漢字の書方なぞを注意してやつた時は、奈何どんなに其筆先がぶる/\と震へたらう。

五時間目、国語。教科書を半分で閉じて、丑松は生徒の顔を見渡し、少し話すことがある、と言った。別れの言葉に続けて、自分の生まれを、十五、六の生徒たちに向かって告げる。声に出した、その直後――

手も足も烈しくふるへて来た。丑松は立つて居られないといふ風で、そこに在る机に身を支へた。

せめて其の骨折に免じて、今日迄こんにちまでのことは何卒どうか許して下さい。

丑松はまだび足りないと思つたか、二歩三歩ふたあしみあし退却あとずさりして、『許して下さい』を言ひなが板敷の上へひざまづいた。

── 引用はいずれも島崎藤村『破戒』(青空文庫版)より

立派な告白ではなかった。震えて、机に縋って、詫びて、床に膝を突いてしまう。誇り高い宣言というものからは遠い、痛みの告白である。けれど、封は破られた。父の一語は、この日ようやく一生分の仕事を終えた。教室の戸が開き、波のように人が押し寄せてくる。丑松はもう、窓の内側にいない。

そのあと

教壇を降りた丑松に手を差し伸べたのは、意外な人物だった。あの、噂に追われて夕闇の飯山を駕籠で出て行った男――大日向である。テキサスの新しい土地で農業を、という誘い。かつて音もなく消された人が、こんどは声をかける側に立っていた。『見給へ――捨てる神あれば、助ける神ありさ。』と、友人の銀之助は笑う。

猪子蓮太郎の告白がなければ、瀬川丑松はおそらく一生黙っていた。先に立ったひとりの背中が、次のひとりの舌を解いた。勇気はこうして人から人へ移る。震えを消さないまま、移る。物語の外でも、この本は身ひとつの決断だった――藤村は出版社に頼らず、一九〇六年、自費でこれを世に出している(緑蔭叢書第壱編)。内でも外でも、誰かが先に口を開くことから、すべては始まった。

戒めの一語を、外に着る

『破戒』グラフィック原画。長野・飯田の木造校舎の実写の窓の内に、生成AIが描いた架空の巡礼者が立ち、「隠せ。」――戒はこの一語で尽きた。の一節を縦書きで添えている
グラフィック原画。長野・飯田の実写に、生成AIが描いた架空の巡礼者がひとり。

この一枚を仕立てたのは、47storiesJPという小さな仕事場です。著作権の保護期間が満ちた日本の文学から一節を選び、その物語の土地の実写と一枚の画に組んで、一県に一作、数えて四十七のTシャツにしています。長野の一枚は『破戒』。言葉は藤村の原文の一節、風景は飯田の木造校舎の実写、画中にひとり立つ人物だけは生成AIが描いた架空の巡礼者で、実在の誰でもありません。「隠せ。」――隠すための言葉を、胸の外側に出して着る。この小さな逆さまが、長野の一枚の芯です。

白い長袖Tシャツ。胸に「隠せ。」――戒はこの一語で尽きた。の一節と、飯田の木造校舎の実写を組んだグラフィック

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長野 ── 島崎藤村『破戒』

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頁を閉じてから、聴く『破戒』

監視する社会の側と、告白する人間の側。この一冊を真ん中に挟んで、兄と妹が話した放送がある。ムラの怖さはどこに宿るのか、丑松の告白はなぜ跪きの形をとったのか――活字のあとに、声でもう一往復。

#30 長野 / 島崎藤村『破戒』 / 極貧の監視社会と命がけの自己開示

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