長野
島崎藤村
Hakai — The Broken Commandment, 1906
「隠せ。」――戒はこの一語で尽きた。
Conceal it. — The commandment was summed up in this single word.
── 島崎藤村『破戒』(一九〇六年)より
一
十六の春、はじめて親元を離れる息子に、父はひとつの物語と、ひとつの約束を残した。教員を志して家を出る、晴れがましい日である。餞は金でも学問の心得でもなく、生涯でただ一度きりの、封印の言葉だった。
『たとへいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅はうと決して其とは自白けるな、一旦の憤怒悲哀に是戒を忘れたら、其時こそ社会から捨てられたものと思へ。』
── 島崎藤村『破戒』より
呪いの形をした、愛である。父は世の中を知っていた。素性の知れた者がどう扱われるかを知り抜いていたから、守るために封をした。息子の口に――というより、息子の一生に。父自身も人目を避け、烏帽子ヶ岳の奥の牧場にひとり隠れ棲むようにして、息子の出世だけを祈った。
瀬川丑松は、その戒めを守って大人になった。長野師範を優等で出て、雪深い飯山の小学校で教壇に立つ、生徒に慕われる青年教師。彼が被差別部落の生まれであることを、この町では誰ひとり知らない。戒めは効いていた。効いているあいだじゅう、彼の内側を静かに削りながら。
『隠せ』――実にそれは生死の問題だ。
── 同
二
雪に埋もれた飯山は、寺の多い、静かな町である。恐ろしいものは何も見当たらない。実際、誰も殴らない。誰も怒鳴らない。ただ、噂が先に歩く。
作中、丑松の下宿に泊まった裕福な男が、飯山の病院に入院する。やがて、どこからともなく声が立つ。あの人は――らしい。それだけで病棟は総立ちになり、追い出せと院長に迫った。ある日の暮れ、男は駕籠に乗せられ、夕闇にまぎれて病院を出て行く。診察を続けた院長も、騒ぎの前では患者ひとり守れない。戻った下宿でも、客たちが「主婦を出せ」と喚き立てた。石を投げた者は、ひとりもいない。名乗り出る加害者のいない暴力が、ひとりの人間を音もなく町から消した。
その一部始終を見た丑松は、宿を替える。憤りからか、恐れからか――おそらく、その両方から。ざわめきは翌日も町に降り積もって、雪と同じで、誰の仕業でもない顔をしている。彼はこの町で、いつも窓の内側に立っている。外からは見えても、胸の内は誰にも聞こえないように。
三
その丑松に、ひそかに読み続けた本があった。著者の名は猪子蓮太郎。思想家であり、闘う書き手であり――そして、素性を公言して生きる、同じ生まれの先人である。丑松が誰にも言えずにいることを、この人は署名入りの本に書き、演壇で語った。世間は彼を病的と嗤い、変わり者と呼んだ。それでも書くことをやめなかった。
読めば読む程丑松はこの先輩に手を引かれて、新しい世界の方へ連れて行かれるやうな気がした。
── 島崎藤村『破戒』より
ただし丑松は、その本を机の下に隠して読んだ。素性を疑う政敵に問い詰められた日には、『懇意でも有ません、関係は有ません、何にも私は知りません』と、三度まで心を偽った。夜にはひとり、蔵書に捺した自分の認印を墨で塗り消して、古本屋に売り払いさえした。この社会では、先人を敬うことすら証拠になるからだ。『先生、許して下さい。』――誰にも聞こえない詫びだけが残った。
当の猪子は、病んだ肺を抱えて生きていた。どんな苦しいことがあっても訴えるな、世間の人の睨む通りに睨ませておいて――『黙つて狼のやうに男らしく死ね』。それがこの先人の主義だったと、作中で語られる。そしてその通りに死んだ。大雪の飯山へ友人の応援演説に乗り込み、壇上で血を吐きながら不正を満場に暴いて、その夜、会場の寺の門前で襲われて、雪の上に倒れた。丑松が駆けつけたときには、もう間に合わなかった。手を下した壮士たちは後日、縄付きで町を引かれていく。
遺骸を戸板で運ぶ列に付き従いながら、丑松は考える。この人は名乗って、書いて、それでも人に用いられて生きた。自分はその人の棺の前でさえ、まだ名乗れずにいる。夜更けの四つ辻で、丑松は声を放って慟哭した。翌朝、机に向かって進退伺を書いたとき、あの一語の戒めを、彼は初めて自分の手で取り出したのである。
四
決意から教室まで、一夜と半日。ここから先は、藤村の文がすべてを言う。
仮令誰が何と言はうと、今はその戒を破り棄てる気で居る。
破戒――何といふ悲しい、壮しい思想だらう。
最後の日の三時間目は、習字だった。いつもの通り、生徒の背後に廻って、その手に手を添えてやる。
漢字の書方なぞを注意してやつた時は、奈何に其筆先がぶる/\と震へたらう。
五時間目、国語。教科書を半分で閉じて、丑松は生徒の顔を見渡し、少し話すことがある、と言った。別れの言葉に続けて、自分の生まれを、十五、六の生徒たちに向かって告げる。声に出した、その直後――
手も足も烈しく慄へて来た。丑松は立つて居られないといふ風で、そこに在る机に身を支へた。
せめて其の骨折に免じて、今日迄のことは何卒許して下さい。
丑松はまだ詑び足りないと思つたか、二歩三歩退却して、『許して下さい』を言ひ乍ら板敷の上へ跪いた。
── 引用はいずれも島崎藤村『破戒』(青空文庫版)より
立派な告白ではなかった。震えて、机に縋って、詫びて、床に膝を突いてしまう。誇り高い宣言というものからは遠い、痛みの告白である。けれど、封は破られた。父の一語は、この日ようやく一生分の仕事を終えた。教室の戸が開き、波のように人が押し寄せてくる。丑松はもう、窓の内側にいない。
五
教壇を降りた丑松に手を差し伸べたのは、意外な人物だった。あの、噂に追われて夕闇の飯山を駕籠で出て行った男――大日向である。テキサスの新しい土地で農業を、という誘い。かつて音もなく消された人が、こんどは声をかける側に立っていた。『見給へ――捨てる神あれば、助ける神ありさ。』と、友人の銀之助は笑う。
猪子蓮太郎の告白がなければ、瀬川丑松はおそらく一生黙っていた。先に立ったひとりの背中が、次のひとりの舌を解いた。勇気はこうして人から人へ移る。震えを消さないまま、移る。物語の外でも、この本は身ひとつの決断だった――藤村は出版社に頼らず、一九〇六年、自費でこれを世に出している(緑蔭叢書第壱編)。内でも外でも、誰かが先に口を開くことから、すべては始まった。
この一枚を仕立てたのは、47storiesJPという小さな仕事場です。著作権の保護期間が満ちた日本の文学から一節を選び、その物語の土地の実写と一枚の画に組んで、一県に一作、数えて四十七のTシャツにしています。長野の一枚は『破戒』。言葉は藤村の原文の一節、風景は飯田の木造校舎の実写、画中にひとり立つ人物だけは生成AIが描いた架空の巡礼者で、実在の誰でもありません。「隠せ。」――隠すための言葉を、胸の外側に出して着る。この小さな逆さまが、長野の一枚の芯です。
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長野 ── 島崎藤村『破戒』
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監視する社会の側と、告白する人間の側。この一冊を真ん中に挟んで、兄と妹が話した放送がある。ムラの怖さはどこに宿るのか、丑松の告白はなぜ跪きの形をとったのか――活字のあとに、声でもう一往復。
#30 長野 / 島崎藤村『破戒』 / 極貧の監視社会と命がけの自己開示